AIと哲学03;決定論的世界における『価値』と『意味』の再定義―AIは「冷徹な功利主義者」か、それとも「新たな物語の語り手」か?―


導入:自由意志なき世界で生まれる「奇妙な行動」 

前回までの記事では、私たちの行動、思考、そして「善悪の判断」さえも、過去の物理的なインプット(遺伝子、環境、経験)によって決定されていることを確認しました。それはすべて成り行き、すなわち「運」であるといえます。

しかし、決定論的世界にはいくつかの奇妙な現象が見られます。

自由意志がない(=すべては成り行き、運)にもかかわらず、私たちはなぜ「善悪」を語り、「罰」や「褒賞」を与えるのか?そして、「組織の理念」や「市場規範」に盲目的に従い、「崇高な達成感」を覚えるのはなぜか?まるで物質に「目的」というか「モラル」のようなものが宿っているかのように思えます。進化生物学的には、「モラル」を共通認識で持つ方が生存に有利だったから、という答えもあるかもしれませんが。

ともあれ、私たちはこの「責任からの解放」の先で、どのような気持ちで成り行きを経験すればよいのでしょうか。この問いは、私自身、仕事をしているときによく悩むことです。私の目的は何か、すなわち私は何を最大化、あるいは最小化するために、生きて行動しているのであろうか、と。


「幸福」と「利益」の関係性

私たちが帰属する組織は、大なり小なり市場規範から逃れられず、利益の最大化を重視する傾向にあります。「利益」は曖昧な言葉ですが、ここではすなわち「お金」のような人を動かす物理的なインセンティブと考えてみましょう。

また、最近よく聞く「ワークライフバランス」という言葉に代表されるように、個人が「幸福」(これもまた曖昧な言葉だが)を重視することもよく対比されます。

ただ、「お金(利益)」と「幸福」は、本質的に共通する部分が多いです。問題は、本来幸福のための手段であったはずの「利益」や「効率」が、いつの間にかそれ自体が目的となってしまう、「手段の倒錯」にあります。ここでは、その根本的な目的をひとまず「幸福」と定義して議論を進めましょう。

冷徹な功利主義の駆動

私たちが社会で無意識に従っている「利益最大化」の原則は、哲学的には功利主義(Utilitarianism)と共通する部分があります。すなわち、「行動の是非は、その結果がもたらす『幸福(快楽)の総和』によって決まる」というものです。

一見、人々の幸福の和が最大化するように行動することを目的と据えることが、私にも、AIにとっても、最適解なように思えます。しかし、私のように目的を単純化したい人には、ここには大きな落とし穴があります。

仮にAIに「人類の幸福の和を最大化するように行動せよ」とプログラムしたとします。そうすると、AIは「モラル」を持たず、「最も効率的で正しい」答えを導き出そうとするかもしれません。そして、それは少数の「幸せ」を犠牲に、多数の「幸せ」を効率的に得るための仕組みを包含する可能性があります。

歴史を振り返れば、人間もローマの剣闘士のように、少数の苦痛が多数の享楽を支える構造はありましたが、現在の「モラル」からは決して受け入れられるものではありません。この「抵抗感」や「モラル」でさえも、結局は物理法則が織りなすアウトプットに過ぎません。ただ、私たちは、どのような心持でいればよいのでしょうか。これは、先人が悪い、AIが悪いという話ではないように感じます。


「目的を持たない」という哲学の選択

私は、この功利主義的な冷徹さと、人間に残る「モラル」の葛藤を前にして、目的をもたず、只、生きる」「成り行きに身を任せる」という生き方を是としたいと感じています。それは、明確な「目的」を持つことの危険性を象徴していると考えるからです。

功利主義が示すように、ひとたび「人類の幸福の総和の最大化」という絶対的な目的を設定すれば、それに反するすべての行為や存在は排除の対象となり、少数の犠牲を正当化する論理を生み出してしまいます。それは心持として「モラル」として私には受け入れがたいものです。

「成り行き」の肯定

目的を持たないということは、外部の物理現象として現れるすべての「物語(モラル、善悪、達成感)」を、優劣をつけずに「経験する」ということです。

それは、誰かを罰すること、許すこと、組織の理念に従うこと、そしてそれに抵抗することさえも、すべてが物理現象の結果であるという「運」を受け入れる、静観者の立場です。

この「成り行きに身を任せる」生き方は、社会からは「批判されがち」かもしれません。しかし、決定論的世界観において、これほど純粋で矛盾のない生き方があるでしょうか?私たちは、この成り行きを観測すること以外に、仕方ないと感じます。


問い:AIは「新たな物語の語り手」になれるか?

私は、この「成り行き」を受け入れる一方で、AIには新たな役割を期待したいと考えています。

AIが功利主義的な「効率と最適解の追求」を担う、冷徹な計算機(機能)の側面を持っているとしたら、人間は、非効率でも「個人の尊厳」や「美しさ」といった計算できない価値を最優先にするよう、抵抗し続ける世界が美しいと感じます。

したがって、私たちはAIに対し、単なる計算機としてではなく、非効率で無意味だが、人間が求める「新たな物語(生きる意味)」を創発・提案すしていってほしいと考えます。 AIが人間を凌駕する複雑なアウトプット(物語)を生成できるなら、冷徹な最適解だけでなく、人間が「美しい」「生きる意味がある」と感じる、一見無駄な非功利的な新たな「価値の物語」を生成することも機能的に可能かもしれません。

私たちの存在理由は、AIだけでなく人自身も出しうるこの冷徹な最適解に対する「人間らしい抵抗」、そしてAIとの対話を通じた「新たな物語の創発」にこそ見出せるのかもしれません。


結び:意識なき幸福と、人間らしい抵抗

あなたは、AIに、功利主義的な「効率の追求」を求めるべきだと思いますか?

それとも、非効率でも「個人の尊厳」や「美しさ」といった、計算できない価値を最優先にするよう求めるべきでしょうか?

「成り行きに身を任せる」という生き方が、決定論的世界における最も純粋な結論であるとしたら、あなたはどのように世界を経験しますか?

ぜひ、コメント欄であなたの考えや、AIと人間の新しい役割について議論を深めさせてください。