この記事の立場
私は、価値が究極的には幸福のような一つのものへ還元できるのか、それとも自由、尊厳、公平、美しさ、好奇心など複数の価値が独立して存在するのかについて、まだ答えを持っていない。
しかし、それとは別に、今の私が比較的はっきり採っている立場がある。
一人の重大な苦痛を、多数の小さな幸福によって無制限に相殺できるとは考えない。
私は幸福を重視するし、人と人との利益を比較すること自体を否定したいわけでもない。自分の小さな幸福を少し諦めることで、他者が深刻な苦痛に陥ることを防げるなら、むしろそうしたいと思う。
私が疑っているのは、複雑な価値を一つの数字に変換し、その数字が大きくなったという理由だけで、それ以外のすべてを正当化できるという考え方である。
育種では、複数の形質を選抜指数という一本の指標へまとめることがある。しかし、その指数を計算する以前に、何をどれほど価値ある形質として扱うのかを決めなければならない。
最適化は、何を価値とすべきかまでは決めてくれない。
また私は、意味や価値が、対象だけに固定された属性ではなく、履歴を持つ主体と世界との関係に依存して成立すると考えている。だから、それらを一つの共通尺度へ変換するときには、追加の仮定や重みづけが必要になる。
AIには「人生の正しい目的」を教えてほしいのではない。
私たちがいつの間にか何を目的関数に置き、どのような重みを与え、何をそこから落としていたのかを問い直す対話相手になってほしい。
因果の世界で、それでも「価値」は残るのか
AIと哲学01では、私は決定論的な世界観について考えた。
人間の意思や判断を、物理世界の外側から因果関係へ介入する特別な力だとは考えない。考えることも、迷うことも、何かを選ぶことも、私たち自身を構成する物理的・機能的な過程として、因果関係の中にある。
AIと哲学02では、その考えを意識にまで広げた。私は、十分に複雑な因果的・機能的構造が成立するなら、神経細胞とは異なる物理基盤でも、原理的には意識が創発しうると考えている。
すると、次の問いが残る。
価値はどこから来るのだろう。
私が何かを善いと思うことにも、美しいと思うことにも、嫌だと思うことにも原因があるはずである。
遺伝、発達、身体、家族、教育、文化、社会、その人がそれまで経験してきた出来事。そうしたものの積み重ねによって、現在の私の価値判断も形成されている。
ならば、「善い」「大切だ」「意味がある」と感じることは、ただの物理現象にすぎないのだろうか。
以前の私は、ここから「すべて成り行きなら、目的など持たず、ただ世界を観測していればよいのではないか」という方向へ傾いていた。
今はそう考えていない。
私自身も因果の流れの中にいる
決定論は、「何をしても同じ」という宿命論ではない。
私が本を読むこと、研究すること、誰かに言葉をかけること、眠ること、何もしないこと。それらも以前の状態から生じ、同時に、それ以後の世界の状態へ影響する条件になる。
ここで「私は自由意志によって新しい原因を作った」と考える必要はない。
私自身も世界の外側にいる観測者ではなく、因果系列の内部に存在する物理系だからである。
今日読んだ一冊の本によって、明日の判断が変わるかもしれない。誰かから聞いた一言が、その後の進路を変えるかもしれない。
因果関係に従っているからこそ、入力が変われば、その後の状態も変わりうる。
だから今の私は、決定論を「成り行きを静観する思想」ではなく、自分の思考や行動まで含めて、ある状態が次の状態へつながっていく世界観として理解している。
「価値」と「意味」をいったん分ける
ここから議論を進めるために、「価値」と「意味」を少し分けてみたい。
この記事では、ひとまず次のように考える。
価値とは、ある状態を「より望ましい」「避けたい」と評価すること。
一方で意味とは、ある対象や出来事が、その主体の履歴との関係の中で持つ位置づけや差異である。
「苦しんでいる人を助ける方が望ましい」という話と、「この本は私の人生に大きな意味を持った」という話は、完全には同じではない。
しかし私は、両者に共通した構造があるのではないかと考えている。
どちらも、対象だけを見れば一意に決まるとは限らない。
同じ本でも、意味は同じではない
一冊の本を考える。
同じ文章が印刷された同じ本でも、ある人が読めば「退屈だった」で終わる。一方で、別の人が読めば「この本で人生が変わった」と言うことがある。
では、その「人生を変えた意味」はどこに存在していたのだろう。
本の中だけに存在したのなら、読んだ全員に同じ意味が生じるはずである。
逆に、読者の中だけに最初から存在していたとも言いにくい。その本と出会わなければ、その変化は起こらなかったかもしれないからだ。
意味は、
本 × その人がそこまで生きてきた履歴 × そのときの状態
の相互作用から生じた、と考える方が私には自然に感じられる。
AIと哲学11では、「私」という存在を、その瞬間の物質配置だけではなく、そこへ至った物理的・因果的な履歴から考える「履歴依存的創発主義」という仮説を置いた。
同じ考えを意味にも広げられるかもしれない。
意味とは、対象の固定的な属性ではなく、履歴を持つ観測者と世界との関係から創発する性質なのではないか。
そして関係的だからといって、意味が偽物になるわけではない。
ある本を読んだことで考え方が変わり、行動が変わり、進路が変わるなら、その「意味」はその後の物理世界に実際の差を生じさせている。
価値も「関係」を無視できない
価値についても似た問題がある。
同じ仕事でも、ある人には面白く、ある人には耐え難い。同じ一時間の自由時間でも、ある人には休息となり、別の人には孤独となる。
もちろん、人間には共通する身体や社会性があるため、すべての価値が完全に個人的だと言いたいわけではない。激しい痛み、飢え、恐怖、孤立などについては、かなり共通した傾向もある。
それでも、実際にある状態がどれほど価値を持つかは、その主体の状態や履歴から完全には切り離せないように思う。
ここで重要な問題が生じる。
社会や組織では、多数の異なる価値をそのまま扱うことが難しい。何らかの意思決定をするためには、比較可能な指標へ変換したくなる。
しかし、関係的に生じる価値を共通尺度へ写すためには、追加の変換規則が必要になる。
何を測るのか。誰と誰を比較するのか。苦痛と幸福をどう扱うのか。何を最低限守るのか。
その規則は、対象を観測するだけでは一意に決まらない。
共通尺度を作ることは、世界に最初から存在する一本の物差しを発見する作業とは限らない。少なくとも、何らかの仮定と重みづけを必要とする。
私はこのことを、育種の仕事を通じてかなり具体的に経験してきた。
育種では、価値を一本の指数へ変換する
植物の品種を選抜するとき、評価する形質は一つではない。
収量が高ければ、それだけで優良品種になるわけではない。食味、耐病性、倒伏抵抗性、成熟期、品質、機械収穫への適性など、複数の形質を見る必要がある。
しかも、すべての形質で最高の個体が存在するとは限らない。
収量は高いが倒れやすい。食味は良いが病気に弱い。機械収穫には適しているが、収量は少し劣る。
こうした複数形質を同時に扱うために、育種では古くから選抜指数という方法が使われてきた(Smith, 1936; Hazel, 1943)。
古典的なSmith–Hazel型の考え方では、まず育種目標を、概念的には次のように表す。
H = a₁g₁ + a₂g₂ + … + aₙgₙg は各形質の遺伝的な価値、a は各形質に置く経済的重み(economic weight)、つまりその形質をどれほど改善する価値があると扱うかを表す重みである。
実際の選抜では、観測できる形質を使って、
I = b₁x₁ + b₂x₂ + … + bₙxₙ
という選抜指数を作る。
最適な係数 b は、表現型と遺伝の分散共分散構造を使って、
b = P⁻¹Ga
の形で統計的に導くことができる。
ここには、私にとって非常に重要な点がある。
b は最適化できる。しかし、その計算は a を決めてくれない。
もちろん経済的重みも恣意的に決める必要はなく、作物価格、生産費、収益などから定量的に推定できる場合がある。
それでも、「収量を目的に含める」「品質をこの条件で評価する」「この地域、この市場、この時間軸を想定する」といった育種目標そのものは、遺伝分散共分散行列から自然に出てくるわけではない。
最適化は、価値判断を消す操作ではない。価値判断を入力として、その実現方法を計算する操作である。
私はこの構造が、AIについて考えるうえでも非常に重要だと思う。
AIも、「何を最大化するか」を自分では決められない
AIの学習や最適化でも、目的関数、損失関数、報酬、評価指標などを置く。
その目的に対して、より優れた解を探すことはできる。
しかし、
そもそも何を報酬とすべきか。
何を評価対象に含めるべきか。
どの失敗を重大と見なすべきか。
という問いは、最適化アルゴリズムそのものから自動的に導かれるわけではない。
育種における a と同じように、何らかの価値入力が必要になる。
そしてこの問題はAIだけではない。
企業が売上をKPIにする。学校が点数で評価する。研究者を論文数で評価する。社会をGDPで評価する。
人間も昔から、複雑な世界を一本の指数へ変換してきた。
指標を作ること自体が問題なのではない。複雑な世界で意思決定する以上、集約は必要になる。
危険なのは、意思決定のために作った指数を、いつの間にか「価値そのもの」だと思い始めることだと思う。
単一の評価軸へ過度に最適化することの脆さについては、AIと哲学05でも考えた。
また、「一本の評価軸で人間を測ること」への違和感は、AIと哲学12で考えた仕事と人間の価値の問題にもつながっている。
幸福も「目的関数」にできるのか
以前の私は、企業の利益最大化と功利主義をかなり近いものとして扱っていた。
これは正確ではなかった。
利益最大化は利益という指標を最大化することであり、古典的功利主義は、結果として生じる幸福や効用を道徳判断の中心に置く(Bentham, 1789; Mill, 1863)。
ただし、両者には形式上似た問いがある。
複数の主体に生じる価値を、一本の数字へ集約してよいのか。
私は幸福を重要だと思う。
苦しいより苦しくない方がよい。楽しく生きられるなら、その方がよい。
自由や尊厳、公平についても、それらが人間の幸福や苦痛と深く結びついているように感じている。
だから私は、幸福を価値の中心から外したいわけではない。
しかし、
「全員の幸福を足して、総和を最大化すればよい」
と言われると、どうしても違和感が残る。
他人の幸福は、私の苦痛を埋め合わせるのか
一人の人間へ非常に大きな苦痛を与えることで、一万人が少しずつ楽しくなれる状況を考えてみる。
例えば、多数の観衆を楽しませるために、少数の人間へ死闘を強制する剣闘士を極端に単純化した状況である。
仮に幸福と苦痛を数字に変換できて、
観客一万人の小さな楽しさの合計 > 剣闘士一人の激しい苦痛
になったとしても、私は「だから正しい」とは思えない。
Rawlsは功利主義への批判の中で、人間がそれぞれ別個の人生を生きる存在であるという人格の区別・分離、the distinction between persons を重視した(Rawls, 1971, §§5, 30)。
この区別は私にも重要に思える。
同じ一人の人間が、今日大きな努力をし、その結果として明日の自分が幸福になる。
これは、一つの人生の内部でのトレードオフとして理解できる。
しかし、
Aが激しい苦痛を受け、その代わりBからZまでが少し楽しくなる。
という場合、利益を受ける主体が違う。
Bの幸福が増えても、Aの苦痛そのものが減るわけではない。
他人の幸福は、苦痛を受けている本人の口座には振り込まれない。
問題は、価値の数より「どう集計するか」にある
ここは、価値一元論と価値多元論の問題と分けて考えたい。
幸福だけが究極的な価値なのか。
それとも自由、尊厳、美しさ、好奇心、公平、関係性などが、それぞれ独立した価値を持つのか。
私はまだ答えを持っていない。
しかし、その問いに答えなくても、別の立場は取れる。
私は、人格を超えた利益と損失の無制限な相殺には反対する。
これは、人格間の比較を一切してはいけない、という意味ではない。
例えば、私が少しだけ不便を受け入れることで、別の人の重大な苦痛を避けられるなら、私はその交換をかなり自然に受け入れる。
私が拒否したいのは逆方向である。
一人が極端に踏みつけられても、大勢へ小さな快楽を配れば総和ではプラスになるから正しい、という計算である。
私の現在の直感は、
まず、誰かが深刻に踏みつけられていないかを見る。そのうえで、可能ならより多くの幸福を目指す。
に近い。
哲学には、各人がある十分な水準に達することを重視する十分主義的な議論(Frankfurt, 1987)や、より不遇な人への利益をより重く見る優先主義(Parfit, 1997)がある。
私は現時点で、そのどちらか一つを倫理理論として採用するところまでは行っていない。
それでも、総和だけを見て人格間の損失と利益を無制限に相殺したくない、というところまでは明確に言える。
一本の指数を作ること自体は悪くない
ここまで読むと、
「では、価値を数字にしてはいけないのか」
と思われるかもしれない。
そうは考えていない。
育種でも、一個体ずつ何十もの形質を眺め続けるだけでは選抜できない。
社会でも、予算を配分し、政策を選び、採用し、投資しなければならない。
どこかで比較と集約は必要になる。
だから私が言いたいのは、
目的関数を持つな
ではない。
目的関数を絶対視するな
である。
指数は道具として使う。
ただし、その数字がどこから来たのかを忘れない。
究極の目的は分からなくても、局所的な目的はある
以前の私は、一つの絶対的な目的を設定することの危険性から、
「目的そのものを持たない方がよいのではないか」
と考えた。
今はそうは思わない。
私は研究したい。
知らないことを知りたい。
面白いものを作りたい。
できれば人をひどく傷つけたくない。
自分も、身近な人も、できるだけ穏やかに生きられればよいと思う。
これらは宇宙から与えられた使命ではない。
私がそこまで生きてきた履歴、現在の身体や環境、人との関係から、その時点で生じている目的である。
私はこれを「局所的な目的」と呼びたい。
最適化でいう「局所最適」とは意味が違う。
人生全体や宇宙全体を貫く唯一の終着点ではなく、特定の時間と状況の中で、そのときの自分に実際に生じている目的という意味である。
宇宙に究極の目的があるのかは分からなくても、今日研究したいという目的が存在することまで否定する必要はない。
目的関数を使うなら、少なくとも三つ確認したい
一つの指数を使うこと自体を否定しないのであれば、問題はどう使うかである。
今の私は、少なくとも三つのことを確認したいと思っている。
第一に、重みを変えてみることである。
ある意思決定が a₁ = 0.5 ならA案になり、a₁ = 0.4 にしただけでB案へ逆転するなら、「Aが客観的な最適解だ」とは言いにくい。
結論が重みにどれほど依存しているかを見る感度分析は、価値判断を可視化する方法になる。
第二に、指数へ入れなかったものを記録することである。
測定できなかったもの、データがなかったもの、数値化できなかったもの、意図的に対象外としたもの。
評価関数に入っていないものは、最適化されない。そして、数字から消えたからといって、現実から消えたわけではない。
第三に、総合値だけでなく内訳を見ることである。
同じ総合点100でも、
全員が10ずつ得た結果
と、
一人が大きく失い、他の人がその分を得た結果
は同じではないかもしれない。
総和だけでなく、誰が何を得て、誰が何を失ったのかを残しておきたい。
これは倫理だけでなく、AIシステムの評価にもそのまま使える考え方だと思う。
AIで「目的関数」を監査する
旧稿では、AIを「冷徹に効率を追求する存在」、人間を「非効率な価値へ抵抗する存在」のように対比していた。
今は、この分け方を採らない。
人間も一つの評価軸へ簡単に囚われる。
売上、KPI、論文数、偏差値、フォロワー数、年収。
数字は便利だからこそ、測定のために作ったものが、いつの間にか「それ自体が目的」になりやすい。
一方でAIは、その危険を増幅するだけでなく、問い直すためにも使えると思う。
例えば、
「この判断では、何を最大化しようとしているのか」
「その指標に入っていないものは何か」
「この重みを変えると、結論は変わるか」
「誰の利益と誰の損失を相殺しているのか」
「この最適化を極端まで続けると、どんな世界になるのか」
と問いかける。
これはAIに倫理を決めてもらうことではない。
自分たちがすでに埋め込んだ価値判断を、AIとの対話によって観測可能にすることである。
AIとの対話で、自分自身の「重み」を知る
人生相談でも同じことが起こる。
例えば、
「この仕事を続けるべきか」
とAIに相談したとする。
AIに「辞めるべきです」「続けるべきです」と答えてもらうことより、収入、好奇心、成長、自由時間、人間関係、安定、将来の研究機会など、自分が暗黙に評価している軸を並べてもらう方が役に立つことがある。
そこで初めて、
「私は思っていた以上に、好奇心を重視していた」
と気づくかもしれない。
あるいは、
「収入が少し増えることより、この時間を失う方が嫌だった」
と分かるかもしれない。
AIが宇宙の真理として価値を与えたわけではない。
AIとの対話という新しい経験が、自分の履歴に加わり、その後の価値判断を変えたのである。
その意味では、AIは旧稿で書いた「新たな物語の語り手」にもなりうる。
ただし、私たちに一つの正しい物語を与えるのではない。
複数の見方を提示し、現在の物語を揺さぶり、別の重みづけを見せる存在としてである。
反論・限界
1. 結局、価値は一つなのか複数なのか
分からない。
私はこの問題を保留する。
幸福だけが究極的な価値であり、自由や尊厳なども最終的には幸福へ還元できる可能性はあると思う。
一方で、それらが完全に同じ尺度へ還元できるとも確信していない。
ただし、この記事の中心的な主張はそこではない。
価値の種類が一つであっても複数であっても、人格を超えた利益と損失を無制限に相殺してよいかは別問題である。
私は後者には否定的な立場を取る。
2. 人格間の相殺を否定したら、社会的意思決定ができないのではないか
人格間の比較やトレードオフをすべて拒否しているわけではない。
公共政策や医療、社会保障などでは、限られた資源を複数人へ配分しなければならない。
私が拒否したいのは、総和だけを理由として、少数者へ際限なく重大な損害を集中させることである。
どこに限界線を引くべきかについては、まだ答えを持っていない。
3. 「最低限」とはどこなのか
これも分からない。
十分主義なら閾値をどこに置くのかという問題が生じるし、優先主義でも、どれほど不遇な人をどの程度優先するのかを決めなければならない。
今の私は、一つの理論を完成させたわけではない。
それでも「多数の小さな享楽が、一人の極端な苦痛を簡単に正当化する」という結論には抵抗したい。
4. 経済的重みも客観的に計算できるのではないか
できる場合がある。
市場価格や生産費、収益などを使えば、経済的重みをかなり定量的に評価できる。
しかし、その場合にも、どの市場を想定するのか、どの時間軸を見るのか、どの形質を育種目標へ含めるのかといった前提は必要になる。
だから私は経済的重みを「完全に主観的な値」と呼びたいわけではない。
言いたいのは、統計的最適化だけでは最終目的まで決まらないということである。
5. 意味や価値が関係から生じるなら、完全に主観的なのか
必ずしもそうは考えない。
人間には身体、生物学、社会、言語など多くの共通部分があるため、似た対象に似た意味や価値が生じることもある。
私が否定したいのは、「対象だけを見れば、その意味や価値が一意に決まる」という考えである。
対象と履歴を持つ主体との関係から成立する、という位置を今は取っている。
6. 結局、実務では何を変えるのか
少なくとも私は、
- 重みを変えた感度分析をする
- 指数へ入れなかったものを明示する
- 総合値だけでなく、その内訳と分布を見る
という三つを意識したい。
それでも判断は必要になる。
しかし、「最適解が出た」という言葉で価値判断を隠すよりは、その判断がどこに埋め込まれているかを見える状態にしておく方がよい。
AIにも、その監査を手伝わせたい。
7. AIに目的関数を監査させるなら、そのAIは誰が監査するのか
これは重要な問題である。
AIも価値判断の外側にいる中立的な観測者ではない。
どのデータで学習したのか。どの応答を望ましいものとして評価したのか。どの安全基準を設けたのか。どの問いに答え、どの問いには答えないよう設計したのか。
そこにも、人間が与えた重みや選択が含まれている。
さらに、私がこの記事で提案した方法にも同じ問題がある。
「重みをどこまで動かして感度分析するか」を決めること自体が判断である。
「指数に入れなかったものを記録する」と言っても、何をその一覧へ載せるかを誰かが決めなければならない。
監査を監査し、その監査をさらに監査しようとすれば、どこまでも後退できる。
私は、この無限後退を止める究極の基準を持っていない。
しかし、
完全に中立な監査者が存在しないことと、一段でも重みを可視化することに意味がないことは同じではない。
自分が置いた前提を一つ外から眺める。
別の重みなら結論がどう変わるかを見る。
自分とは異なる立場から反論を生成させる。
その行為自体にも前提は残るが、何も問い直さず「最適解」と呼ぶよりはよい。
AIを価値判断の審判にしたいのではない。
自分たちの判断を、一段ずつ問い直すための道具として使いたい。
今の私がAIに期待しているのは、その程度の役割である。
結論:何を最大化するかより、何を重くしたのかを問い続けたい
世界に究極の目的が存在するのか。
私は分からない。
価値は最終的に幸福という一つのものへ還元できるのか。それとも複数の独立した価値が存在するのか。
これも分からない。
しかし、分からないままでも、今の私はいくつかの立場を取ることができる。
幸福は大切にしたい。
しかし、多数の小さな幸福によって、一人の重大な苦痛を無制限に相殺したくはない。
目的は持つ。
しかし、自分がその時点で持っている局所的な目的を、宇宙の究極目的だとは考えない。
指数は使う。
しかし、その指数を価値そのものだとは考えない。
意味や価値は、世界のどこかに固定された答えとして存在するというより、世界と、そこまでの履歴を持つ主体との関係から生じる部分があるのではないかと考えている。
育種では、多数の形質を一本の選抜指数へ変換する。
それは非常に有用な方法である。
しかし、最適な係数 b を統計的に計算できても、その前に「何を改善したいのか」を表す a が必要になる。
私はこの構造を、人生や社会やAIにも感じている。
私たちは何らかの目的関数なしには判断できない。
しかし、その目的関数は世界そのものではない。
だから、
何を最大化すればよいのか
だけではなく、
何を数えたのか。何を落としたのか。誰の利益と誰の苦痛を比較したのか。そして、なぜその重みを置いたのか。
を問い続けたい。
AIに期待するのも、人生の正解を出すことではない。
自分では当たり前すぎて見えなくなった重みを外に出し、別の重みを置いた世界を見せ、その目的関数を監査すること。
そして、そのAI自身もまた重みを持つことを忘れず、必要なら監査する側の前提まで問い返すこと。
究極の中立点には到達できないかもしれない。
それでも、一段ずつ前提を可視化することはできる。
そして、その対話によって私自身の価値観が変わるなら、その変化もまた、私と世界との因果的な相互作用の一部である。
究極の目的が分からなくても、局所的な目的は生じる。
意味が対象だけに埋め込まれていなくても、意味は関係の中に立ち上がる。
価値を一本の数字へ完全には還元できなくても、判断することはできる。
今の私は、
「正しい目的関数を見つけること」よりも、「自分たちがどんな目的関数を置き、どんな重みを与え、誰にどんな犠牲を負わせているのかを問い続けること」の方に、よく生きるための手がかりがある
と考えている。
編集注(2026-09-04)
本稿は2025年12月11日に公開した初稿を、AIと哲学01・02およびその後の議論を踏まえて全面的に再構成した。
初稿では、企業の利益最大化と功利主義を近いものとして扱い、決定論から「成り行きを静観する」という生き方を導いていた。また、明確な目的を持つこと自体を危険視し、AIを冷徹な最適化装置、人間を非効率な価値へ抵抗する存在として対比していた。
現在は、これらの立場を修正している。
私は、自分の思考や行動も因果関係の内部にあると考える。究極の目的が分からなくても、その時々の局所的な目的は成立する。
幸福を重要な価値だと思う一方、価値が究極的に一つなのか複数なのかについては保留する。ただし、人格を超えた幸福と苦痛を総和だけで無制限に相殺することには反対する。
また、複雑な価値を一つの指数へ変換すること自体は否定しないが、重みづけや対象範囲そのものが目的設定の一部であることを忘れないようにしたい。
意味については、履歴を持つ主体と世界との関係から創発するという仮説を採っている。
そしてAIには、価値の答えを決定する役割ではなく、目的関数、その重み、そこから除外されたものを監査する対話相手としての役割を期待している。ただしAI自身も価値判断から自由ではなく、完全に中立な監査者は存在しないかもしれない。それでも、一段ずつ前提を可視化することには意味があると考えている。
この価値論は完成した倫理体系ではない。
人格間比較をどこまで認めるのか、何を最低限守るのか、幸福以外の価値が究極的に独立しているのか、履歴依存的な意味をどこまで一般化できるのかについては、今後も考え続けたい。
参考文献
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- Frankfurt, H. G. (1987). Equality as a moral ideal. Ethics, 98(1), 21–43. https://doi.org/10.1086/292913
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- Parfit, D. (1997). Equality and priority. Ratio, 10(3), 202–221. https://doi.org/10.1111/1467-9329.00041
- Rawls, J. (1971). A Theory of Justice. Harvard University Press.
- Smith, H. F. (1936). A discriminant function for plant selection. Annals of Eugenics, 7(3), 240–250.