AIと哲学11;ただ、生き延びている、それで良い ―責任・尊厳・好奇心、決定論的世界での生き方―
「責任を取れ」という言葉を聞くたびに、強い違和感を覚える。
責任とは何か。そもそも人は責任を取れるのか。AIとの対話の中でこの問いを立てたとき、私はすでに答えの輪郭を感じていた。しかしその答えを言語化するには、いくつかの迂回路が必要だった。
1. 責任は本当に取れるのか
交通事故で失われた命を、加害者が「責任を取って」元に戻すことは物理的に不可能だ。時間は巻き戻せない。この意味で、人間は本質的に、起きてしまった重大なことに対して完全な責任を取る能力を持っていない。
さらに根本的な問題がある。
私は決定論的な世界観に立っている。人間の行動は、遺伝・環境・その瞬間の脳の状態という、本人がコントロールできない要因の連鎖反応として生じる。「あの時ああすべきだった」という後悔は、物理的に別の選択が可能だったという前提の上に成立するが、その前提自体が怪しい。
とすれば、誰かを罰するという行為は何を意味するのか。
故障した機械を叩いて怒鳴るようなものだ、とAIは言った。私もそう思う。報復感情の行き場を作るために、運悪く加害者になった人間を生贄に捧げる。その構造に、知的な振る舞いを見出すことができない。
「すべては運である」という前提に立てば、罰は必要ない。
2. しかし「引き受け」は必要だ
ここで一つの緊張が生まれる。
私は「履歴依存的創発主義」という立場を取っている。意識の同一性は、その系の不可逆的な物理的履歴によって定義される。つまり「私」とは、この身体が経験してきた不可逆な出来事の総体だ。
とすれば、決定論的に生じた行為であっても、それは「私の履歴」として刻まれる。
罰は不要だ。しかし「その履歴が自分のものであると認識すること」は、よく生きる上で重要だと感じる。これは応報としての責任ではなく、自己の連続性への誠実さとでも言うべきものだ。
自分の履歴から目を背けないこと。それが個人の尊厳と関連しているような気がする。
3. 他者の履歴を認めること
同じ論理が、他者への向き合い方を変える。
加害された場合にも、加害者がその行動に至った遺伝的・経験的な背景をよく理解しようとすることで、寛容さが生まれる。そこに憎しみはない。
憎しみとは何かを考えると、ある評価軸を絶対的なものとして固定するところから生まれる気がする。「あいつは間違っている」「あいつは劣っている」という判断は、特定の評価軸を自明の前提としている。
しかし他者にも、自分がコントロールできなかった不可逆的な履歴がある。その認識は、報復感情を根本から解体する。「あいつが悪い」ではなく「あいつにもそうなった履歴がある」という見方へのシフトだ。
「他者にも履歴があることを強く意識すること」が、共感と許しの根拠になる。
4. 育種現場で身体が知ったこと
この考えに至ったのは、純粋な思車の結果ではない。
北海道で6年間、育種研究の理論に向き合った。毎年、何千もの個体を評価し、選抜し、また評価するという作業の繰り返しを傍らで見続けてきた。その過程で、身体が先に知ったことがある。
「ある評価軸に対しての優劣であり、本質的に優劣は存在しない。
収量が高い品種が「優れている」のは、収量という評価軸においてだけだ。干ばつ耐性という軸を置けば順位は変わる。機械収穫適性という軸を置けば、また変わる。どの個体も、ある軸では優れ、ある軸では劣る。
植物はただ、与えられた環境の中で生き延びているだけだ。そしてそれで良い。
20代に比べて、30代の今、悲しみと諦めはある。しかし憎しみを抱くことはずいぶん減った。決定的な転換点があったわけではない。植物を見続ける中で、気がついたらそうなっていた。
評価軸の恣意性を身体で知ることが、他者への絶対的な判断を静かに解除していったのだと思う。
結論:好奇心の赴くまま、ただ生きるのみ
責任論から始まったこの思索は、最終的に生き方の問いへと着地した。
罰は不要だ。しかし自分の履歴を引き受け、他者の履歴を認めることは重要だ。本質的な優劣は存在しない。ただ、それぞれの履歴を持って生き延びているだけだ。
とすれば、残る問いはただ一つになる。どう生きるか、ではなく、何に向かって生きるか。
答えはシンプルだ。
好奇心の赴くまま、ただ生きるのみ。
これは投げやりな諦めではない。責任という重荷を降ろした先に現れる、最も純粋な生の形だ。AIが社会の最適化を担い、人間が好奇心という種火を燃やし続ける未来を、私は理想として描いている。
そしてその好奇心の中心に、今この問いがある。
意識とは何か。AIに意識は創発するのか。私は何者か。
答えが出るかどうかはわからない。それでも問い続けずにはいられない。育種現場で植物が生き延びるように、私もただ、この好奇心とともに生き延びていく。
※本記事は、AIとの対話を通じて言語化された思索の記録です。決定論・責任・尊厳・好奇心という一見バラバラなテーマが、「履歴依存的創発主義」という私自身の哲学的命題を軸に、一本の線として繋がった過程を辿っています。