この記事の立場

私は、効率化や選抜そのものに反対しているわけではない。

育種では、限られた時間、圃場、労力の中から、目的に合った系統を見いだしていかなければならない。そのために評価し、比較し、次に残す材料を絞り込むことは不可欠である。

私自身も、育種家として品種を選抜してきたわけではないが、育種法を研究する立場から、どのような情報を使えばより良い選抜ができるのか、選抜という操作がどのような性質を持つのかを考えてきた。

その経験から、今は一つのことを強く意識している。

最適化とは、何かを残す操作であると同時に、何かを捨てる操作でもある。

現在の評価軸で高く評価されないことと、未来にも価値がないことは同じではない。

未来の環境を完全には予測できない以上、多様性には、現在の性能だけでは測れない「将来の選択肢」としての価値があるのではないか。

この記事で考えたいのは、「効率化をやめるべきか」ではない。

私たちは、何を失ってもよいと判断して最適化しているのか。

それが今回の問いである。

育種法を研究すると、「選抜」という操作が見えてくる

育種では、すべての個体や系統を永遠に残すことはできない。

収量。

品質。

病害抵抗性。

成熟期。

倒伏。

機械収穫適性。

地域への適応性。

評価したい形質はいくつもあり、利用できる圃場、時間、人員、予算には限りがある。

だから何らかの基準で候補を絞る。

私は品種を決定する育種家として選抜を担ってきたわけではない。

一方で、育種法を研究する中では、

どの情報を使えば、将来有望な系統をより正確に識別できるか。

という問題を扱ってきた。

ゲノム情報を使う。

複数環境の成績を使う。

統計モデルによって遺伝的能力を推定する。

選抜指数によって複数形質を一つの判断へまとめる。

こうした方法は、限られた資源の中で育種を進めるために非常に重要である。

しかし、選抜法の精度を上げることを考えていると、別の問いも見えてくる。

正しく選ぶとは、何を意味するのだろう。

ある形質について未来の成績を完璧に予測できるモデルができたとしても、

その形質を強く選ぶべきか。

という問いは残る。

これは「AIと哲学03」で考えた目的関数の問題でもある。

最適化は、与えられた目標へ近づくことはできる。

しかし、何を目標にすべきかまでは教えてくれない。

そして05では、その次の問題を考えたい。

一つの目標へ近づいていく過程で、何が失われるのか。

進化は、「より優れたもの」へ向かっているわけではない

生物の進化について話すとき、私たちはつい「進歩」という言葉を使いたくなる。

単純な生物から複雑な生物へ。

弱いものから強いものへ。

非効率なものから効率的なものへ。

知性の低いものから高いものへ。

しかし、自然選択をこのような一本の階段として考えるのは適切ではない。

自然選択には、

最終的にここへ到達すべきだ。

という設計図が置かれているわけではない。

ある環境で生存・繁殖に有利だった変異が、次世代へ多く残る。

環境が変われば、有利な形質も変わる。

現在有利であることは、未来にも有利であることを保証しない。

そして「複雑」「高性能」「知的」といった、人間から見て進歩に見える方向へ必ず進むわけでもない。

このことは、育種を考えるうえでも面白い。

自然選択と育種の人工選択には大きな違いがある。

育種では、人間が目標を置くからである。

人工選択では、人間が「良い」を定義する

例えば収量を考える。

高収量の系統を残す。

これは明確な選抜である。

しかし実際には、それほど単純ではない。

収量だけ高くても、病気に弱ければ使いにくい。

倒れやすければ機械収穫できない。

成熟が遅すぎれば、その地域では栽培できない。

品質が市場要求を満たさなければ普及しない。

そこで複数の形質を考える。

以前の記事で紹介した選抜指数も、その一つである。

概念的には、

`text 育種上の価値 = 収量への重み

  • 品質への重み
  • 病害抵抗性への重み
  • その他の形質への重み `

のように、多数の形質を一つの選抜判断へ近づける。

これは非常に有用である。

しかし、その計算式の外側には、

何を評価対象に入れるか。

それぞれにどれほど重みを置くか。

という人間の判断が残る。

つまり人工選択では、

「何が残るか」は、何を測り、何を良いと定義したかに強く依存する。

ここで私は、育種とはまったく異なる歴史を思い出す。

優生学である。

測れることと、価値を測れていることは違う

Francis Galtonは、統計学、生物測定、人間の個人差研究の歴史で重要な人物である。

相関や平均への回帰につながる考え方にも大きく貢献した。

同時に、彼は1883年に「eugenics」という語を作り、人間集団の遺伝的性質を意図的に「改善」するという思想を構想した。

1904年には、優生学を先天的な性質を改善するための諸要因を扱う科学として説明している。

Karl PearsonもGaltonの思想を強く支持し、W. F. R. Weldonらとともに生物測定学や統計学を発展させた。

ここは慎重に考えたい。

私は、

統計学が優生学を生んだ。

と言いたいわけではない。

相関係数に善悪はない。

回帰分析にも善悪はない。

人間の身長を測ること自体が、人間の尊厳を否定するわけでもない。

問題は別のところにある。

text 違いを測定する ↓ 比較できるようにする ↓ 順位をつける ↓ その順位を「人間としての望ましさ」と結びつける ↓ その評価に基づいて生殖や生存への介入を正当化する

この途中には、いくつもの飛躍がある。

特に重大なのは、

測定可能な差があること

と、

その差によって、人間の価値を決めてよいこと

を混同することである。

測定技術が高度になればなるほど、この区別はむしろ重要になる。

なぜなら、数字は客観的に見えるからだ。

測定値が正確であるほど、

この数字で評価すること自体も正しい。

ように感じてしまう。

しかし、

測定の正確さと、評価軸の正当性は別問題である。

これは過去の優生学だけの話ではない。

AIによる評価を考えるときにも、同じ問題が現れる。

AIは「価値」を発見しているのか

現在のAIは、多数のデータから規則性を見つけ、人や物を分類し、順位づけし、予測することができる。

しかし、そのときAIが直接「価値」を観測しているとは限らない。

多くの場合、私たちは本当に知りたいものを直接測れない。

例えば、

将来活躍する人。

良い研究者。

良い社員。

良い教育。

良い品種。

こうした概念を、そのままセンサーで測ることはできない。

だからproxyを置く。

試験点数。

過去の実績。

評価履歴。

収量。

売上。

クリック率。

何らかの観測可能な数字へ置き換える。

AIは、そのproxyを人間より高速に、大規模に、一貫して最適化できる。

これは大きな利点である。

同時に、危険もある。

評価軸が不完全だった場合、その不完全さまで大規模に適用できてしまう。

AIが多様性を嫌っているわけではない。

AIに「効率主義」という思想があるわけでもない。

問題は、人間が与えた目的関数、データ、ラベル、proxyに対して、非常に強力な最適化が可能になることである。

だからAI時代には、

モデルは正確か。

だけでは足りない。

何に対して正確なのか。

を問い続ける必要がある。

では、育種は多様性を失わせるのか

ここで自分の議論に反論してみたい。

一つの形質を強く選抜すれば、多様性が単純に減り続ける。

そう考えたくなる。

しかし、実際の植物育種はそこまで単純ではない。

近代育種が作物の遺伝的多様性をどの程度減少させてきたのかについて、研究結果は一様ではない。

過去の品種を近代品種へ置き換えた段階で失われた多様性もある。

一方で、20世紀に育成された品種群を年代別に比較した研究では、「近代育種が進むほど遺伝的多様性が一方向に減り続けた」という単純なパターンは必ずしも観測されていない。

新しい遺伝資源を導入する育種もある。

交雑によって新しい組合せを作ることもある。

育種目標も時代とともに変わる。

だから、

選抜 = 多様性の破壊

と一般化するのは正しくない。

これは重要な反論である。

私は多様性を守るために選抜を弱めればよい、と主張したいわけではない。

むしろ問いは、

どの多様性を、どの階層で、どれだけ維持する必要があるのか。

である。

品種内の多様性。

育種集団内の多様性。

地域で栽培される品種の多様性。

遺伝資源として保存される多様性。

これらは同じものではない。

一つの圃場に無限の多様性を入れればよいわけでもない。

それでも、多様性を完全に無視できない理由がある。

未来が分からないからである。

今日役に立たないことと、未来にも役に立たないことは違う

ある遺伝変異が、現在の環境ではほとんど価値を持たないとする。

収量を上げない。

品質も変えない。

現在流行している病害への抵抗性にも関係しない。

ならば、その変異は不要なのだろうか。

現在の環境だけを考えるなら、そう見えるかもしれない。

しかし環境は変化する。

新しい病原体が現れる。

気温が上がる。

降水パターンが変わる。

栽培体系が変わる。

農業機械が変わる。

消費者が求める品質が変わる。

そのとき、それまで目立たなかった遺伝的変異の価値が変わることがある。

2024年に発表された大規模なコムギ多環境試験の解析でも、温暖化条件への収量応答が高いことと、環境をまたいだ安定性の間には単純ではない関係が示されている。

将来の気候へ適応するためには、現在の高性能材料だけを見続けるのではなく、気候レジリエンスに寄与する遺伝的多様性を育種へ取り込む必要があると指摘されている。

ここで私が重要だと思うのは、

ある遺伝子型や変異の価値は、環境から独立した固定値ではない。

ということである。

これは「AIと統計学03」で考えたG×Eともつながる。

ある環境で優秀な遺伝子型が、別の環境でも優秀とは限らない。

ならば、

現在の環境で最大の性能を出す材料だけを残すこと。

と、

将来の不確実な環境へ対応できる可能性を残すこと。

は、必ずしも同じ目標ではない。

多様性には「将来の選択肢」としての価値がある

ここまで考えると、私は多様性を少し違う目で見るようになる。

多様性とは、

現在、同時に使っている能力の数

だけではない。

未来に選べる選択肢の集合でもある。

これは、すべての変異が同じ価値を持つという意味ではない。

明確に有害なものまで積極的に利用しなければならない、という話でもない。

不要に見えるものを何でも保存しておけばよいという主張でもない。

保存にもコストがある。

評価にもコストがある。

維持にもコストがある。

だから、やはり選ばなければならない。

しかし、不確実な未来を考えるなら、

text 現在の性能

だけでは評価できない価値がある。

私はそれを、

text 将来の選択可能性

と考えたい。

現在使っていない遺伝資源を保存する。

複数の育種集団を維持する。

異なる適応型を残す。

一つの品種ですべての地域を覆おうとしない。

こうした行為には、一見すると「非効率」が含まれる。

だが、それは本当に無駄なのだろうか。

保険が、平時には使われないから無駄だとは限らない。

バックアップが、普段アクセスされないから無価値だとは限らない。

多様性もまた、

未来の環境について私たちが知らないことに対する保険

として見ることができるかもしれない。

AI時代に「役に立たない」を誰が決めるのか

ここで再びAIへ戻る。

AIによる最適化が広がるほど、私は「役に立つ」という言葉を慎重に使いたい。

ある能力が役に立つかどうかは、

どの環境で。

どの期間で。

どの目的に対して。

評価するかによって変わる。

例えば、短期間の生産性だけを評価すれば、

じっくり考える人。

失敗を繰り返す探索。

直接成果に結びつかない基礎研究。

少数の人にしか理解されない専門技能。

冗長なバックアップ。

多様な方法を並行して残すこと。

そうしたものは「効率が悪い」と判定されるかもしれない。

しかし評価期間を長くしたり、環境が変化したりすれば、価値が逆転することがある。

ここで植物育種と人間社会を同一視するつもりはない。

人間は、育種材料ではない。

人間の尊厳や権利を、作物の選抜と同じ原理で扱ってよいはずもない。

むしろ、両者を安易に同じものとして扱った歴史こそ、優生学の危険を示している。

それでも、「選抜」という抽象的な操作から学べることはある。

評価軸を決めると、その軸の外にあるものは見えにくくなる。

最適化を強くすると、その評価軸による選択がより強く集団へ反映される。

この二点である。

AIは、この選択を高速化できる。

だからこそ、

AIで何を最適化できるか。

だけでなく、

AIで最適化した結果、何が見えなくなるのか。

を考えなければならない。

反論・限界――多様性は、多ければ多いほど良いのか

ここまで読むと、

では何も捨てず、すべて残せばよい。

と思うかもしれない。

私はそうは考えない。

第一に、多様性そのものを最大化することも一つの目的関数である。

それを無条件に最大化すればよい理由はない。

農業では、一定の均一性が必要になることも多い。

成熟期が極端にばらつけば収穫しにくい。

品質が不均一なら流通しにくい。

病害感受性の高い材料を無制限に残す必要もない。

第二に、選抜が遺伝的多様性を常に一方向へ減らすわけでもない。

交雑、遺伝資源の導入、新しい育種目標によって、新しい遺伝的変異が利用される場合もある。

第三に、人間社会と植物育種は道徳的に同じではない。

植物育種の選抜概念を人間へそのまま持ち込むことはできない。

優生学の歴史を扱ったのは、

人間も育種すべきだ。

という意味では当然ない。

むしろ逆である。

測定と選抜の技術が高度であることと、それをどこへ適用してよいかは別問題である。

第四に、未来のために何を残すべきかは、結局すべて分かるわけではない。

多様性を残せば未来の問題がすべて解決する、という話でもない。

未知は未知のままである。

だから多様性は、

未来を予測する方法

ではなく、

未来を予測しきれないことを前提にした戦略

として理解する方がよいと思う。

今のところの私の結論

私は、効率化そのものを疑っているわけではない。

より少ない資源で、より良い成果を出すことには大きな価値がある。

精度の高い選抜法を研究することにも意味がある。

AIによって無駄な作業を減らすことにも賛成する。

しかし、

効率が上がった

という言葉だけでは、まだ何も評価できない。

何に対する効率なのか。

どの時間範囲での効率なのか。

何を成果として数えたのか。

そして、

その効率化の過程で、何を失ったのか。

を見る必要がある。

選抜とは、未来を作る操作である。

何かを残せば、次の世代にその可能性が続く。

何かを失えば、場合によっては、その選択肢を後から取り戻せない。

だから、最適化の問題は、

何を最大化するか

だけでは終わらない。

最大化する過程で、何を不可逆に失う可能性があるのか。

まで考える必要がある。

私は今、多様性の価値を、

すべて違うから尊い。

という抽象的な言葉だけではなく、

未来について私たちが知らない以上、将来選び直すための余地を残しておくこと。

として理解している。

現在役に立たないことと、未来にも価値がないことは同じではない。

そして、現在の評価軸で測れないことと、価値が存在しないことも同じではない。

AIによる最適化がますます強力になる時代だからこそ、この区別は重要になると思う。

次に考えてみませんか?

ここまで私は、「効率化」という言葉を何度も使ってきた。

しかし、そもそも効率とは何なのだろう。

一般には、

text 効率 = 得られた成果 / 投入した資源

のように考える。

では、「知性の効率」を考えるとき、

成果とは何を指すのだろう。

推論能力なのか。

学習能力なのか。

環境への適応なのか。

創造性なのか。

意識や感情まで含めるのか。

そして資源とは、

電力なのか。

計算量なのか。

水なのか。

学習に必要だった時間なのか。

人間の脳とAIを比べるとき、本当に同じ分子と分母を使えるのだろうか。

次の記事では、

人間の「知性効率」をAIは超えられるのか。

という問いそのものを、もう一度疑ってみたい。

参考文献

  • Galton, F. (1904). Eugenics: Its Definition, Scope and Aims. The American Journal of Sociology, 10(1), 1–25.
  • Fu, Y.-B. (2015). Understanding crop genetic diversity under modern plant breeding. Theoretical and Applied Genetics, 128, 2131–2142.
  • van de Wouw, M., van Hintum, T., Kik, C., van Treuren, R., & Visser, B. (2010). Genetic diversity trends in twentieth century crop cultivars: a meta analysis. Theoretical and Applied Genetics, 120, 1241–1252.
  • Xiong, W., Reynolds, M. P., Montes, C., et al. (2024). New wheat breeding paradigms for a warming climate. Nature Climate Change, 14, 869–875. DOI: 10.1038/s41558-024-02069-0.
  • University College London. Our Early History: The Early History of the Department of Statistics. Galton、Karl Pearson、biometry、統計学、優生学の歴史的関係について参照。

編集注(2026-09-05)

旧稿では、「究極の効率」と多様性をやや二項対立的に扱い、AIが標準的な能力を選好するかのような表現を含んでいた。

今回の改稿では、効率化や選抜そのものを否定する立場から離れ、評価軸を設定して最適化するとき、何が残り、何が失われるのかを中心的な問いに置いた。

また、筆者の立場についても、品種選抜を担う「育種家」ではなく、育種法を研究する研究者として選抜の方法・評価・予測を考えてきたことを明確にした。

優生学については、統計学そのものを原因とする単純な因果関係を避け、測定可能性と価値判断を混同したときに何が起こりうるかという歴史的事例として位置づけ直した。

さらに、近代育種が遺伝的多様性を常に一方向に減少させるという単純化を避け、遺伝的多様性を「未来を完全には予測できないことに対する将来の選択肢」として捉え直した。